僕は自分がサイコパスだったらいいと思うことがあります。
それは何度もあります。
なぜならサイコパスなら感情をコントロールできるからです。
なぜ人はうつになるのでしょうか?
それは感情と自分が同化してしまい、視野が狭くなり
コントロールもできなくなってしまうからではないでしょうか?
うつ病は単なる病気だという人もいますが。
なので人は自分を客観視、俯瞰視することが大切です。
かという自分も心は折れまくりです。
いつの間に感情が暴走してしまい、どうしようもない時があり、
それによって望まない人生を歩むこともありますから。
なので僕は自分はサイコパスではないのは確信しています。
こうやって感情に振り回されていることが多いですから。
もちろん、これから不安に思っていることが確実にくるという保証はありません。
私自身地道にやらないといけないことがあるのでしょう。
それさえもプラスになると受け入れればそれが人にとっては大切なことです。
それは自分自身知ってもいます。
ですがその知識だけでは心の暴走は止まりません。
かなり厄介な生き物ですよね。感情って。
ただの感情だと認識できるようになればいいのですが。
とりあえずそうなるようにやっていることは
気付いたときに自分を実況することです。
今、自分はイラついている。恐れている。不安に侵されている。呼吸が苦しくなっているとか。
それは実況じゃなくても、例えば小説の作家になったつもりでもいいんです。
男は今歩いていて、脳の中ではあれこれと言葉が飛び交っている。
それをどうにかしようと早歩きをするが、目の前に自転車が通り、思わず急ブレーキをした、など。
それしかいまのところ、自分を第三者的な立場に立たせることができないですし、
考えること、意識することもできません。
とにかく自分をそこに立たせておいた方がいいと思います。
法華経の説話の中で、
「三車火宅の譬え」というものがあります。
簡単に説明すると、それは家が火事になっていて、父親は外に避難したのですが、子供たちは気付かずに中で遊んでいて、呼んでも気づかない子供たちに、父親は子供たちの大好きなおもちゃが外にあると嘘をついて、振り向かせ、子供たちを無事に外に出したという話があります。
それは『嘘も方便』のルーツとなる説話です。
救うためなら嘘をついてもいい、もしくは救える嘘があるならしなさい、という意味ですが、ここにも僕は客観視が隠されていると思います。
それは父親である人物は自分とかけ離れた自分であり、
子供は憎しみ、不安、恐怖、歓びなどの感情にあたるものだと思います。
感情のいる場所は本来火事になっっている家であり、安全な場所ではありません。ですうから外にいる父親を意識することが大切なのです。
父親の視点を持ち、常に火事の中にいる感情という子供たちを救える嘘、方便を使って救い出さなければなりません。
その視点にいなければ僕たちは火事の家の中にいることになり、やがて火とともに消えてしまうのです。
ですからこの説話の教えは、客観する自分を常に意識しなさい、という教えでもあると思うのです。
みなさんもぜひよかったら意識してください。
ともにサイコパスに近づきましょう。
もちろん、よいサイコパスの方ね。
ありがとうございました。
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