男はメガネをかけ、鼻の下にちょび髭を生やし、耳にピアスをし、前髪をそろえたおかっぱ頭。 とても異様な独特のスタイルの男をご存知ですか。 一度見たら忘れられない風貌をした男こそ、藤田 嗣治(ふじたつぐはる)またの名をレオナール・フジタである。 パリで名をとどろかせた日本人画家である。 フジタは小さい頃から絵を描き、いつしかフランス留学に憧れていた。 フジタは東京美術学校に通うが、自分の求めるスタイルと日本画壇の流行していたスタイルとの違い、表面的な技法の授業に嫌気がさして、しょっちゅう授業を抜け出していた。そういうこともあってか、成績はよくなかったのである。 卒業後、日本で精力的に絵を描き続け、美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会い、1912年に結婚をする。 しかし、フランスに憧れていたフジタはフランス行きを決意し、わずか一年余りの結婚生活で妻を置いて、飛び立ったのである。 フランスに行って一年、第一世界大戦が勃発し、生活が困窮した。 ちなみに、この極貧の生活の中で、フジダのトレードマークである髪型は生まれました。節約のために伸びる髪を前が見えるように自分で少しずつ切っていた結果生まれた髪型だったのです。そして、その時の貧乏時代を忘れないようにとその髪型を守っていたのです。 パリでフジタはフェルナンド・バレエという女性画家と出会い、結婚します。 それがきっかけでパリでの人脈も広がり、絵が売れるようになりました。 しかし、バレエとは離婚もしてしまいます。 ちなみにフジタはこの後も別の女性たちと結婚と離婚を繰り返します。 ちなみに、最後の女性は25歳年下の日本人の君代という人でした。 フジタは1933年以降は日本に帰国し、活動の拠点とします。 しかし、日中戦争がはじまると、祖国への貢献を願い大画面の戦争画の制作をしたのですが、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、その責任をとる形で日本を離れます。 日本に嫌気がさし、日本には戻らないと決めたフジタは、再びパリに戻り、1955年にフランス国籍を取得しました。1959年、72歳の時にはランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられました。そして、82歳で生涯を終えます。 フジタの代名詞といえば、乳白色の下地と線描です。 線描は、水性の墨を使っていました。そしてそれを可能にしたのが、乳白色の下地でした。ですが、この下地の技法はフジタは秘密にしていたこともあり、謎のままでした。 しかし、近年の研究で、ベビーパウダーを白い画材と混ぜることで、半光沢の滑らかな質感や上品な乳白色が成り立っていることが判明しました。 フジタは自分の独自の技法を開発し、パリで成功をしたのです。 独自の技法を開発するには、かなりの時間と労力をかけなければなりません。 フジタは努力の人だったのかもしれません。
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