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執筆者の写真奥田 伸行

錯視の魔術師

前回メスキータをご紹介させていただきました‼️ なので、今回は、メスキータを師事し、メスキータの名を広めようと奔走したマウリッツ・エッシャーをご紹介します。 エッシャーといえば、非現実的な永遠に続く階段を描いたり、水路を描いたり、摩訶不思議な絵を描くことで有名です。 ではなぜこのような絵を描くようになったのでしょうか? オランダで五人目の末っ子で生まれます。 そして、父のもとで13歳まで土木技術を学びます。 二十歳ぐらいでハールレムの学校に通い、建築と装飾美術を学びます。 そこでメスキータと出会い、装飾美術の才能を見いだされます。 その後は、メスキータが亡くなるまで関係は続くのです。 卒業後、エッシャーはイタリアに旅行した際、出会った女性と結婚し、ローマに移り住みます。 風景画『カストロバルバ』を描いています。それは最高傑作の作品ともいわれているそうです。 しかし、次男に結核の兆候が見つかったことなど子供たちの事情で、一家はスイスに移り住みます。しかし、エッシャーにとって雪景色は合わず、一枚しか作らなかったそうです。しかし、その時期に自分と見つめ、南の海に憧れるようになり、スペイン旅行に出かけます。だけど、エッシャーはそのころ、まだ無名でお金もありませんでした。なぜできたのか、というとその船の旅をしている最中に制作した作品を乗船券の代わりに交渉したそうです。 そこでアルハンブラ宮殿にあるムーア人のモザイク模様を見て深い感銘を受けることになります。 妻と共に宮殿の洗練された模様の膨大なスケッチをとったり、旅行後は結晶学者であった兄のB.G.エッシャーから『結晶学時報』を読んでみるように勧められると、『結晶学時報』には繰り返し模様に関する論文が掲載されており、平面を同じ図形で埋める方法(平面充填)を研究した。1958年には愛好家に向けて『平面の正則分割』を発表し、自分自身でまとめた理論を分かりやすく説明している。 それからも、幾何学的な模様などを用いて、不思議な作品を創作し続けた。 その影響からか、エッシャーの作品を麻薬を吸いながら絵を眺めるような若者もいたという。それほど当時のエッシャーの作品は人々を翻弄とさせる作品だったということがわかる。 晩年は、健康をそこない、あまり創作ができなかった。しかし、死後数枚の草稿が見つかったという。 見る人を惑わせる絵というのは芸術家にとって、あこがれの作品です。 こんな作品を自分も作りたいと願うばかりです。

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